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東京高等裁判所 昭和51年(行ケ)128号 判決

原告

住友電気工業株式会社

被告

特許庁長官

上記当事者間の昭和51年(行ケ)第128号審決取消請求事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

特許庁が、昭和51年9月16日、同庁昭和47年審判第809号事件についてした審決を取消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求めた。

第2原告の請求原因及び主張

1. 特許庁における手続の経緯

原告は、昭和41年6月8日名称を「ステンレス鋼線のニツケルメツキ皮膜による伸線法」とする発明(以下「本件発明」という。)につき特許出願し、昭和44年6月28日出願公告(特公昭44―14572号)されたが、昭和46年11月2日拒絶査定を受けた。そこで原告は、昭和47年2月18日審判を請求し、同年審判第809号事件として審理されたが、特許庁は昭和51年9月16日「本件審判の請求は成り立たない」旨の審決をし、その謄本は同年10月13日原告に送達された。

2. 本件発明の要旨

ステンレス鋼線にニツケル・メツキを施して伸線潤滑を容易ならしめたことを特徴とするステンレス鋼線の伸線方法。

3. 審決理由の要点

本件発明の要旨は、前項のとおりである。

これに対し、昭和49年4月17日付拒絶理由に引用された本出願前に米国で頒布されたAmerican Soc-iety for Testing and Materials発行、1961、Book of ASTM Standards Part 2のASTM Designat-ion; B254-53の項(以下「引用例」という。)には、線引を行う際の潤滑化を目的としてステンレス鋼上に種々の金属をメツキすること(引用例第1136頁)及び普通の金属(カドミウム、銅、真鍮、クロム、金、ニツケル又は銀)はステンレス鋼の表面が活性であればそのステンレス鋼上に直接メツキできること(引用例第1139頁)がそれぞれ記載されている。

そうしてみると、線引を行う際の潤滑化を目的としてステンレス鋼上にメツキされる金属として具体的に例示されているニツケルを採用する程度のことは、別段、創意を要しないと解される。

従つて、本件発明は引用例の記載に基づいて当業者が容易に推考し得る程度の発明、すなわち特許法第29条第2項の規定に該当する発明であるから、特許を受けることができないものと認める。

4. 審決を取消すべき事由

(1)  引用例には、ニツケルがステンレス鋼の伸線に適することの開示はない。審決は、この点をみすごしている。

ステンレス鋼の伸線のためには、従来潤滑被膜として金属を用いる場合、銅、鉛のように潤滑性のよい、軟金属で安価なものを使うのが技術常識であつた。しかるに、ニツケルは硬く、価格も高いので、これを使用することは技術常識に反していた。

引用例は、種々の目的に対して種々の金属がメツキできることを記載しているのであつて、そのうち伸線の目的に特にニツケルメツキが適するとの点の記載はない。

もともと引用例は、「ステンレス鋼の電気メツキとその前処理の推奨実施法」と題するもので、ステンレス鋼にメツキする一般的な目的とメツキの一般的な方法を述べた一般的な手引書であり、審決で引用された第1136頁(訳文第1頁第12行~第16行)の「色彩調整、冷間ヘツデイング・バネ巻・線引き時の潤滑、高温での酸化皮膜の減少、(万年筆におけるような)湿潤性の改良、熱及び電気伝導性の改良、傷の防止、装身具の装飾、外観が重要なものの表面錆の防止等の目的で種々の金属がステンレス鋼に電着される。」の記載と、第1139頁(訳文第10頁第3行~第5行)の「ステンレス鋼の表面が活性であるならば、普通の金属(カドミウム、銅、真鍮、クロム、金、ニツケル又は銀)の接着性のある層を直接ステンレス鋼に電着できるであろう。」の記載とは、互いに独立した異質なものでありこれらの「言葉」だけの組合せをもつて、「伸線潤滑→ニツケル」を結びつけることが容易に可能であるとすることは、引用例の性格並びに審決引用個所の性格を無視したものである。

引用例を正確に理解した上で考えるならば、結局引用例は、伸線(線引き)に用いる金属については、第1137頁上欄第7行~第13行(訳文第3頁第14行~第18行)において、記載しているだけであり、銅、鉛、カドミウムのごときニツケルとは性格を異にする金属しか開示していないと判断するのが妥当である。

(2)  従来法の鉛や銅のような軟金属のものを使用すると、それらは一般的に低融点なので、熱処理の際はげて仕上りが汚いし、ステンレスの本来の色調を損うので、脱皮膜の工程が必要であつた。これに対しニツケルを使用すると、潤滑性も劣らず、高融点のために熱処理の際はげることがなく、仕上りもきれいで、脱皮膜の工程が不要となり、色調もきれいで、熱処理作業における厳しい雰囲気の規正も不要となり、作業能率が向上し、鉛のように人体に影響を及ぼすこともなくなつた。そして伸線完成品の品質として耐蝕性、色調、潤滑性もよく、二次加工性もすぐれている。

本件発明は、上記のような作用効果の顕著性をもつているのに、審決はこれを見落し、引用例から推考容易としたものであつて、違法である。

第3原告の請求原因に対する被告の認否及び主張

1. 原告の請求原因及び主張の一ないし3を認め、4を争う。

2. (1) 転用困難性について

(1)  原告の主張4の(1)のうち、ステンレス鋼の伸線のために従来潤滑被膜として金属を用いる場合、銅、鉛のように潤滑性のよい軟金属で安価なものを使うのが技術常識であつたこと、ニツケルが鉛などと比較すれば硬く、かつ、鉛及び銅などよりは高価であることは認めるが、ニツケルを潤滑被膜として使用することが技術常識に反していたとする点はこれを認めることができない。鉛の硬さと銅の硬さとの差に比較すればニツケルの硬さと銅の硬さとの差は遥かに小さく同程度のものともいえる(鉛、銅及びニツケルの硬さは原告が提出した甲第9号証の第437頁の第3・2表に記載されている)し、また、価格と技術常識との間に直接の関係はないからである。更に、本出願前に頒布された精密工作便覧(海老原敬吉外6名編、昭和29年12月20日株式会社コロナ社発行―――Z第1号証)の第231頁には鋼線の伸線に際しニツケルを潤滑被膜として用いることが記載されている。

そして、引用例(甲第3号証)の第1139頁(訳文第10頁)においてステンレス鋼上にメツキされる金属として例示されているカドミウム、銅、真鍮、クロム、金、ニツケル及び銀のうち、メツキ処理を行なう際に欠かすことのできないメツキ浴の組成が示されている金属はニツケルと銅のみであり、しかもニツケルメツキ浴の組成は示された浴組成の5分の4を占める(引用例第1138頁第1139頁訳文第7頁、第8頁、(e)の(1)ないし(3)、(f))。この事実は引用例に記載されている技術がステンレス鋼に主としてニツケルメツキ処理を行なう技術であることを示しているといえよう。そうしてみると、引用例の第1140頁(訳文第11頁)のメツキ後の作業、例えば応力除去、バフ加工、伸線及び着色加工などについての記載もニツケルメツキを施したステンレス鋼線をそれらの作業の対象として念頭においてなされていると解釈する方がめしろ自然である。従つて、引用例第1140頁(訳文第11頁)における「線引の様なメツキ後の作業はステンレス鋼の特性における本来の相違点が考慮されている限り、多くの他の母体金属と同様、ステンレス鋼に適用できる」という記載中の「メツキ後」とは、具体的には、「ニツケルメツキ後」である可能性が高いから、この記載からはニツケルメツキを施したステンレス鋼を伸線することが特に示唆されているというべきである。そして、ニツケルメツキを施したステンレス鋼を伸線すれば、ニツケルメツキが伸線を容易ならしめることはその被覆する効果から当業者には直ちに判明した筈である。そうしてみると、引用例にはステンレス鋼の伸線にニツケルメツキが適することの開示が、結局はなされているといえよう。

(2)  ステンレス鋼を伸線する際には、従来、潤滑剤として金属潤滑剤のみならず石灰、油脂、石鹸などの単独又は複合が用いられていたのである(これらの事実は原告が提出した甲第4号証の第599頁にも記載されている。)

一方、本件明細書(甲第2号証)中にはニツケルメツキを施したステンレス鋼を他の潤滑剤を併用することなく伸線したという記載がない反面、湿式伸線を行なう(湿式伸線を行なう場合に液状潤滑剤が併用されることは原告が提出した甲第4号証第599頁第5~第6行の記載から見ても明らかである)旨の記載(第3頁第4行)及び伸線潤滑を容易ならしめたという記載(特許請求の範囲)があることからみて、本件発明におけるニツケルメツキは伸線潤滑の目的に対しては従たる役割を果しているものである。

また、伸線潤滑を容易ならしめるという目的の有無を別とすれば、本件発明とステンレス鋼線にニツケルメツキを施して伸線するステンレス鋼線の伸線方法の発明とは、異なるところがない。

これらの事情を考慮すれば、本件発明の構成が引用例の記載から予測可能か否かは、原告の主張するようにニツケルメツキを金属潤滑剤として転用できるか否かを第一に考慮して決すべきなのではなく、ニツケルメツキを施したステンレス鋼を伸線することが引用例の記載から予測可能か否かを第一に考慮して決すべきであることは明らかである。従つて、ニツケルメツキを金属潤滑剤として転用することが引用例の記載から仮りに予測できないとしても、そのことは本件発明を引用例の記載から予測する際の妨げになるものではない。そして、ニツケルメツキを施したステンレス鋼線を伸線することが引用例の記載から予測できることは既に述べたとおりである。

(3)  つぎに、伸線潤滑に用いる金属について引用例では脱皮膜の対象として銅、鉛、カドミウムだけが開示されている(第1137頁上欄第7~第13行、訳文第3頁第14~第18行)にすぎないが、これは脱皮膜を必要とする金属潤滑剤について記載したものであつて、ステンレス鋼とその光沢が類似しているため特に脱皮膜を必要としないニツケルメツキについて記載されていないからといつて、原告の主張するようにニツケルがステンレス鋼に対する金属潤滑剤としてその対象外であると断定するのは当をえていないといわざるをえない。

(4)  乙第1号証に、鋼線にニツケルメツキを施して伸線することが記載されている(第231頁、第10~第12行)ことは紛れのない事実であるから、ニツケルメツキが神線潤滑性を有することもまた事実である。従来ステンレス鋼の伸線潤滑剤として用いられている銅、鉛等と異なり、ニツケルは、硬質金属であり異質のものであると原告は主張しているが、一般に固体潤滑剤として要求される特性は軟質金属であるということだけではなく、乙第5号証の第573頁、第6~第16行に(a)ないし(1)として記載されるような種々な特性があり、多少硬くとも他の特性においてすぐれていれば固体潤滑剤として十分に利用しうるものと考えられる。ニツケルと銅とは硬さにおいて多少異なるが周期律表では互いに隣どおしに位置し(甲第25号証、第14頁)、元素としての種々の性質において近似し、また乙第6号証(第18頁、第1・4表)に示されるように固体潤滑剤として特に要求されるせん断強さに関係すると認められるその結晶構造においてともに面心立方格子をなし、格子間隔もほとんど差異がなく、固体潤滑剤として両者が全く異質なものとする原告の主張は認められない。

また、ニツケルメツキ面の硬さについては、そのメツキ条件によつて種々異なる(乙第3号証、第182頁、第2~第3行)こと、ニツケルメツキを他の潤滑剤と併用することも可であること等を考慮すれば、ニツケルが銅にくらべて多少硬いということは致命的な欠点ではなく、ニツケルメツキも銅メツキ同様ステンレス鋼の伸線潤滑剤として使用しうることが、当業者であれば十分予測できるであろう。

以上のように、引用例にはニツケルメツキがステンレス鋼の伸線潤滑剤としてとくに適している旨の明確な記載はないが、原告が主張するようなニツケルメツキがステンレス鋼の伸線潤滑の対象外であるという根拠は全くなく、ニツケルメツキが鋼を対象とする点相違するが、伸線の潤滑剤として本出願前用いられていた事実がある以上、従来この種の潤滑剤として一般に用いられていた銅とその金属としての特性においてとくに異ならないと認められるニツケルをステンレス鋼の伸線潤滑剤として転用することは困難とするに当たらないと信ずる。

(5)  乙第2号証(特公昭38-4163号公報)には、「ベース金属に対して2工程もしくはそれ以上の工程においてメツキを行ない、2つのメツキ工程の間において針金を線引きした場合においては微孔なき表面を有するメツキを得ることができる」(第1頁上欄第13~第16行)こと、「メツキされる金属としても任意の金属もしくは合金に応用しうる。コア・メタルの例としては、ニツケル、鉄、銅、アルミニウム、鋼、ステンレス及びそれらの金属の合金を挙げることができる。」(第1頁上欄第30行ないし第2頁下欄第1行)こと、「本発明の方法は、たとえばニツケル、砲金、青銅、錫その他のごとき(中略)メツキ金属を使用して実施することができる。」(第3頁右欄第45ないし第47行)ことが、それぞれ記載されている。これらの記載において、ステンレス鋼にニツケル・メツキを施して線引き(伸線)することが示されていることは明らかである。しかも、伸線の目的にニツケル・メツキを施すことが特に適していることは、乙第1号証の「鋼線にニツケル又は亜鉛を厚鍍金して細線迄落す方法も発達している」という記載(第231頁第11ないし第12行)、及び乙第3号証(昭和15年修教社書院発行「電鍍化学」)の「然しニツケルも電解鉄の様に色、硬さ等の物理性が種種鍍金方法で異なる。例えば脆いものには柔かくて展性のものがある」という記載(第182頁第2ないし第4行)から明らかである。このように、引用例及び乙第2号証にステンレス鋼にニツケル・メツキを施して線引き(伸線)することが示されており、しかも伸線の目的にニツケル・メツキを施すことが特に適することが乙第1号証及び乙第3号証から明らかである以上、ステンレス鋼の伸線を容易ならしめる潤滑被膜を、鉛メツキ、銅メツキに代えてニツケル・メツキとすることは、当業者が容易になし得ることといわなければならない。

(2) 作用効果について

原告の本件発明の作用効果についての主張中、鉛を潤滑剤として使用した場合に脱皮膜の工程が必要であつたことは認めるが、銅を潤滑剤として使用した場合に脱皮膜の工程が必要であつたこと及びニツケルを使用すると鉛や銅を使用した場合に比較して潤滑性が劣らないことは本件明細書には記載されていないから、これらを看過したとする原告の非難は当らない。

高融点のために熱処理の際はげることがなく、仕上りがきれいという効果が顕著であるとは認めない。これらの効果はニツケルメツキを構成するニツケルの融点から予測できるからである。

脱皮膜の工程が不要という効果も、ニツケルが高融点でありかつ耐食性であるという周知の性質と脱皮膜が熱処理時における前記のトラブルを防止するためになされることとを考慮すれば、予測できるから顕著ではない。色調がきれいであるという効果も、熱処理作業における厳しい雰囲気の規正も不要となつたという効果も、ニツケルメツキの性質上予測できるもので顕著なものと認めることができない。

作業能率が向上するという効果も、脱皮膜が不要になつたという効果をいい換えたものに等しいから、前述した理由により顕著ではない。

鉛のような人体への影響もなくなつたという効果も、伸線完成品の品質及び二次加工性が優れているという効果も、ニツケルメツキの性質上予測できるものである。

第4被告の主張に対する原告の反論

1. 被告は、次の(イ)、(ロ)、(ハ)によりニツケルを潤滑被膜に用いることは技術常識に反しないと主張する。

(イ)  鉛の硬さと銅の硬さとの差に比較すれば、ニツケルと銅の硬さの差は遥かに小さく同程度の硬さといえる。

(ロ)  価格と技術常識との間に直接の関係はない。

(ハ)  乙第1号証の第231頁には鋼線の伸線に際し、ニツケルを潤滑被膜として用いることが記載されている。

しかしながら

(1)  被告が上記(イ)の論拠とする甲第9号証第437頁の第3・2表の平均値を比較すればニツケルが銅より遥かに硬いことに疑問は生じない筈である。

(2)  工業的生産において経済性をはなれた生産というものは存在しない。従つて、材料として使用しうる限り安価なものを使用するというのが技術常識である。

(3)  乙第1号証に記載されているのは、一般鋼線の潤滑被膜に関するものであるが、本件発明の対象とするのはステンレス鋼線である。被告援用の乙第1号証には、「線曳きし難い不銃鋼(ステンレス鋼の意)は錫を少量加えた溶融鉛に侵漬し鉛鍍伸線することも行なわれ、又鋼線にニツケル又は亜鉛を厚鍍金して細線迄落す方法も発達している。」と、ステンレス鋼線の潤滑被膜を、一般の鋼線と区別している。

鋼線にニツケルメツキを施す主たる目的は防食及びニツケル線の代用品としてニツケルの周知の属性を利用することにある。先ず、例を防食にとつて説明すると鋼線は耐食性が著しく劣るので、ニツケルの耐食性を利用してニツケルメツキし耐食性を有する鋼線を製造したのである。そして、このようなニツケルメツキした鋼線は、耐食性に優れ、美麗なため、高価格で販売することができるので、高価なニツケル(出願当時、ニツケルの価格は鋼の約24倍・18―8ステンレスの約4倍・鉛の約8.5倍・亜鉛の約7.5倍・銅の約4倍)を使用しても、コストの回収が容易に可能であるため、採用したのである。しかるにステンレス鋼線の場合は、このようなことは全くいえない。すなわち、耐食性に優れたステンレス鋼線は、その表面を残しておくのが技術常識であり、被覆をつけると却つて、ステンレス鋼線本来の特性が発揮されないとされており(確かにニツケルは耐食性に優れているが、湿つた二酸化イオウや硝酸に侵される等、ニツケルもステンレス鋼に比べると若干劣る。)ステンレス鋼に金属をメツキした場合、必ず後で脱皮膜することが技術常識だつたのである。このため、メツキ時のメツキ不良の確認と共に、脱皮膜の確認のためにも当然、ステンレス鋼線と色彩の違つた金属を用いようとするのが、技術者の常識的考えだつたのである。

本件発明はかかる常識を打破つて、ステンレス鋼線にステンレス鋼線と酷似した色彩でかつ、高硬度、高価格(18―8ステンレスの約4倍)のニツケルをメツキし、かつ、これを伸線後も脱皮膜せず、最終製品に残しておこうとするものであり、さらに鋼線の場合と異なり、ニツケルメツキしたステンレス鋼線を通常のステンレス鋼線以上の高価格で販売できる訳でもなく、技術者であれば、その価値を疑うような全く冒険としか思えない方法を考え出したものである。

以上のことを裏付けるごとく、記載の正確さを欠きながらも、乙第1号証でさえその第231頁第10行~第12行において「線曳きし難い不銹鋼(ステンレス鋼)は」と「又、鋼線に」とに表現を分けながら、ステンレス鋼と一般の鋼線とを明確に区別しており、なんら本件発明の困難性を否定していない。

しかも、乙第1号証の著者は、上記載の正確性を補うため、その改訂版(甲第23号証は改訂版の再版―昭和35年7月20日発行―である)ではその表現を修正している。すなわち、その第947頁第19行~第20行において「不銹鋼等の伸線の困難なものに鉛めつきをし、また鋼線にニツケル、銅、亜鉛、錫等のめつきを施して減摩を容易にし、またその被膜・着色を利用する場合もある。」として不銹鋼と一般の鋼線とを明確に区別した上、銅や錫のごとき、乙第1号証で抜けていた鋼線の伸線潤滑に最も一般的に用いられる金属を加えた後、「またその被膜、着色を利用する場合もある。」として表現を修正している。このことは鋼線へのニツケルメツキが防食の為の利用やニツケル線の代用品(例えば真空管のターゲツトとしてニツケル線の代わりにニツケルメツキ鋼線を使つていた。)としての利用であることを示しているのである。そして、その新訂版(昭和45年6月10日発行―甲第18号証)の第1010頁では、「伸線用潤滑剤を(A)鋼線用潤滑剤、(B)軟鋼線用潤滑剤、(C)ステンレス線用潤滑剤、(D)銅線用潤滑剤……」等と区別して記載しており、「鋼線用潤滑剤」の項及び「軟鋼線用潤滑剤」の項からニツケルを除去している。

このように乙第1号証、甲第23号証、甲第18号証から理解されることは、ステンレス線用潤滑剤は甲第18号証第1010頁上欄第16行~第18行に記載されているごとく「従来より、鉛被膜が行なわれているが、順次、しゆう酸塩被膜、銅被膜、樹脂被膜が発達」してきたということであり(初版の乙第1号証では、鉛被膜のみが記載されており、改訂版の甲第23号証ではしゆう酸塩も使用しうる旨が記載されている。)、前記3つの証拠にはニツケルを採用することは全く開示もされていなければ示唆もされていないのである。

従つて乙第1号証は記載に若干の正確さを欠いているが、前述のごとく伸線潤滑剤の採用については、ステンレス鋼線の場合と一般の鋼線の場合とでは明確に区別しなければならないことを示している。

2. 被告は、引用例のメツキ浴は5分の4がニツケルメツキについてであるから、メツキ後の伸線を含む作業の対象の記載は、ニツケルメツキを施したステンレス鋼線を念頭においてなされたものと解釈するのが自然であると主張する。

しかしながら、引用例の記載(e)の(1)(2)(3)(4)及び(f)の5つのメツキ浴は、いずれも同引用例の訳文の第10頁第2行目以下に「ステンレス鋼の表面が活性であるならば、普通の金属(カドミウム、銅、真鍮、クロム、金、ニツケル又は銀)の接着性のある層を直接ステンレス鋼に電着できるであろう。」と説明されている「活性である」ための手段の一つとして行われるストライクメツキ(下地メツキ)に用いられる浴の例示なのである。つまりこの5つのメツキ浴は電着メツキするための前処理であつて、このあとで、前記普通の金属(カドミウム、銅…)がメツキされるのである。そしてこのあとでメツキされる金属としてニツケルが記載されているのは同項の(f)の一つのみである。従つて、敢えて被告の論でいうなら、ニツケルメツキが記載されているのは5分の1に過ぎず、引用例第1140頁のメツキ後の作業の記載は、前記普通の金属を念頭においてなされたものと解するのが自然である。同記載はすなわちこのような活性化処理の後に例えば線引きの潤滑用にメツキを施すのであれば、同引用例第1137頁上欄(d)(訳文第3頁)に記載されている銅、鉛、カドミウムのような従来の金属潤滑剤をメツキすることができるという趣旨のことを述べているものである。結局引用例にはステンレス鋼線の伸線にニツケルメツキが適することが開示されているといえようとの被告の主張は、誤りに基づくものである。

3. 被告の援用する乙第2号証は引用例の補強証拠としての適格性を有しないものであるから、本審理において、これを取上げるべき筋合のものではない。しかしながら念のため、乙第2号証について、次のとおり原告の表えを述べる。

乙第2号証は、第1頁上欄第13行~第17行の「本発明の他の様相は、ベース金属に対して、2工程もしくは、それ以上の工程においてメツキを行ない2つのメツキ工程の間において針金を線引きした場合においては微孔なき表面を有するメツキを得ることができるという発見にもとづくものである。」との記載、第2頁下欄第5行~第9行の、「本発明のさらに他の様相は、ベース金属に表面キズがあつた場合には、双金属製品の線引き作業中において鋼のキズの個所に根を有する亀裂に発展するような弱点部がメツキ金属中に生起するものであるという発見に依拠するものである。」との記載及び第2頁左欄第13行~第16行の「本発明者がさらにまた発見するところによれば、メツキ中には若干の粗面が生成する傾向があり、もしもそれが発生しはじめたならばその粗面の程度はメツキが進行するにつれて増加するものであるということである。」との記載のように、乙第2号証記載の発明は一般的技術に属するものではなく、特異な発見に基づく発明であるから、本記載をもつて直ちに当時の技術実態を示すものということはできない。

また、乙第2号証は本発明を容易に発明できるように記載されたものではない。乙第2号証には針金にメツキをして線引きすることが記載されているが、その針金(コア・メタル)としては、「ニツケル、鉄、銅、アルミニウム、鋼、ステンレスおよびそれらの合金」(第1頁上欄第31行~第2頁下欄第1行)として、ステンレス以外の多くの金属が挙げられており、メツキ金属も「ニツケル、砲金、青銅、錫その他のごとき他のメツキ金属」(第3頁上欄第45行~第46行)としてニツケル以外の多くの金属が示されている。ところで、ステンレス鋼線を線引きする場合、任意の金属をメツキして線引きできるという性質のものではないことは明らかであり、硬い金属をメツキして線引きすることは明らかであり、硬い金属をメツキして線引きすることは明らかであり、硬い金属をメツキして線引きすることは通常の技術常識からは、直ちに考えられないという条件を考慮するとステンレス銅線の線引きに当つてニツケルメツキを結びつけることが、乙第2号証から直ちに着意しうるとはいえないものである。

以上のごとく、乙第1号証は「ステンレス鋼線」にニツケルメツキを施して伸線潤滑を容易ならしめることは示していないし、乙第2号証も「ステンレス鋼線」にニツケルメツキを施して伸線潤滑を容易ならしめることは示していない。

理由

原告の請求原因及び主張の1ないし3は、当事者間に争いがない。

そこで、本件審決に、これを取消すべき違法の点があるかどうかについて考える。

審決が引用する引用例の第1139頁(訳文第10頁第3行ないし第6行)の記載は、「ステンレス鋼の表面が活性であるならば、普通の金属(カドミウム、銅、真鍮、クロム、金、ニツケル又は銀)の接着性のある層を直接ステンレス鋼に電着できるであろう。」というのであつて、ニツケル等の金属がステンレス鋼にメツキできることを述べているにすぎないものと解される。一方、更に審決が引用する引用例の第1136頁(訳文第1頁第12行ないし第16行)には、「色彩調整、冷間ヘツデイング・バネ巻・線引き時の潤滑、高温での酸化皮膜の減少、(万年筆におけるような)湿潤性の改良、熱及び電気伝導性の改良、傷の防止、装身具の装飾、外観が重要なものの表面錆の防止等の目的で、種々の金属がステンレス鋼に電着される。との記載があるところ、上記記載は、そこに述べられているような種々の目的で、いろいろな金属がステンレス鋼上にメツキされることを述べているにすぎないものと解される。

審決は、引用例中の上記2個所部分を単純に結びつけて、「線引を行う際の潤滑化を目的としてステンレス鋼上にメツキされる金属として具体的に例示されているニツケルを採用する程度のことは、別段、創意を要しないと解される。」としたのであるが、なぜ創意を要しないと解されるかについての理由は全然述べていない。引用例に、ニツケルを含む種々の金属がいろいろな目的のために、ステンレス鋼上にメツキされると記載されているからといつて、そのことからなぜ、線引きを行なう際の潤滑化を目的として特にニツケルを採用することが創意を要することではないとする理由の説明はないのである。審決の論法をもつてすれば、引用例に記載されている諸目的のために、引用例に記載されている多種の金属メツキを用いることは、すべて創意を要しないことになるが、そのように断定することはできないものと考えられる。

被告は、引用例において、ステンレス鋼上にメツキされる金属として例示されている前記金属のうち、メツキ処理を行なう際に欠かすことのできないメツキ浴の組成が示されている金属はニツケルと銅のみであり、しかもニツケルメツキ浴の組成は示された浴組成の5分の4を占めているから、引用例に記載の技術はステンレス鋼に主としてニツケルメツキ処理を行う技術であることを示しているとみられるから、引用例が他の個所でメツキ後の作業として述べているもののうち伸線についても、それは具体的にはニツケルメツキ後のことを指しているものとみられる可能性が強いから、上記引用例には、ニツケルメツキを施したステンレス鋼を伸線することが特に示唆されている旨の主張をする。

しかし、仮に引用例においてニツケルメツキ浴の組成が、示された浴組成の5分の4を占めているとしても、そして被告が本訴で援用する引用例の個所(第1140頁、訳文第11頁―審決の引用しない個所を本訴で援用し得るかという点についての判断は一応措くとして)に、メツキ後の作業として被告主張のような伸線についての記載があつたとしても、そのことから、ニツケルメツキを金属潤滑として施したステンレス鋼線を伸線することが特に示唆されているものということはできない。

被告は、伸線潤滑を容易ならしめる目的の有無を別とすれば、本件発明とステンレス鋼線にニツケルメツキを施して伸線するステンレス鋼線の伸線方法の発明とは異なるところがないから、本件発明の構成が引用例の記載から予測可能か否かは、原告主張のようにニツケルメツキを金属潤滑剤として転用できるか否かを第一に考慮して決すべきではなく、ニツケルメツキを施したステンレス鋼を伸線することが引用例の記載から予測可能か否かを第一に考慮して決すべきであるとの趣旨の主張をする(第3の2の(1)の(2)。そして成立について争いのない乙第2号証(ただし審決においては引用されていない。)には、被告が第3の2の(1)の(5)で主張するように、ステンレス鋼にニツケルメツキを施して線引きすることが示されていることを認めることができる。しかしながら上記乙第2号証において、ステンレス鋼のような「ベース金属に対して2工程もしくはそれ以上の工程において」ニツケルの「メツキを行ない、2つのメツキ工程の間において針金を線引き」するのは「微孔なき」(ステンレス鋼線の)「表面を有するメツキを得る」ためであることが、前記被告引用の個所から認められる。本件発明はニツケルメツキ皮膜そのものを潤滑剤として使用するのであるから(被告は、本件明細書中にはニツケルメツキを施したステンレス鋼を他の潤滑剤を併用することなく伸線したという記載がない半面、湿式伸線を行なう旨の記載及び伸線潤滑を容易ならしめたという記載からみて、本件発明におけるニツケルメツキは伸線潤滑の目的に対しては従たる役割を果していると主張するが、仮にその主張のとおり従たる役割を果しているとしても、ニツケルメツキそのものを潤滑剤として使用するものであることに変りはない。)、そのメツキ皮膜はできるだけ軟質で潤滑性の高い皮膜を得るような方法で得られるものであると認められる。一方、乙第2号証のものは、前記のように、微孔なき表面を有するメツキを得るためにニツケルを使用するのであつて、伸線の目的のために使用するものではないから、伸線のために用いられる潤滑剤は従来から知られているもの(ニツケルメツキではない)を用いるものであることは技術常識から言えることであると認められる。そうすると本件発明と乙第2号証におけるものとは単なる目的が異なるのみではなく、その具体的構成においても異なるものといわなければならない。

被告は、また、乙第1号証を提出し、上記乙号証に記載されている鋼線にニツケルメツキを施して伸線することは周知であつたから、上記鋼線に代えるにステンレス鋼線をもつてすることは推考容易であるかのごとき主張をする。

成立について争いのない上記乙第1号証には、被告の上記主張のような記載があることは認めることができるが、乙第1号証がその後改訂され、昭和45年6月10日にその新訂第8版が発行されたことが認められる成立について争いのない甲第18号証によれば、鋼線用潤滑剤の項からニツケルが除外されていることが認められるところ、上記事実からすれば、本件出願当時においても、鋼線伸線の潤滑にニツケルメツキを用いる技術が周知であつたものと認めることはできない。

上記のとおり、乙第1号証記載の技術が周知技術と認められないとすると、そもそも審決の引用しない上記乙号証を援用して、本件発明は上記乙号証の記載から容易に推考できたものと本訴で主張することは許されないものといわなければならない。

被告は、また、乙第2号証を援用し、乙第2号証にはステンレス鋼にニツケルメツキを施して伸線することが示されていると主張するが、前同様の理由により審決で引用していない乙第2号証を本訴において援用主張することは許されない(上記乙号証は、その記載内容からして、原告が主張するように、本件出願当時の周知技術を示しているものとみることはできない。)。

上記のとおりであるから、審決が、引用例の引用個所のみを摘示し、上記部分の記載から本件発明は当業者が容易に推考し得る程度のものと結論した点において誤りがあり、取消事由となる瑕疵があるものといわなければならない。

よつて本件審決を取消し、訴訟費用は敗訴の当事者である被告に負担させることとして主文のとおり判決する。

(小堀勇 高林克巳 小笠原昭夫)

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